教会との出会い

あなたへ(Nさんの告白から)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
私が教会の礼拝に出席し始めた時に聞いたこの聖書の言葉に全身の力が抜けました。鎧を着て生きるのに疲れていたからです。「目から鱗が落ちる」というのも聖書の言葉です。見えなかったものが見えるようになる。礼拝は毎週日曜日、どなたでも出席できます。どうぞいらしてください。」

洗礼への道のり

a.n.

私は昔の風習が色濃く残る山あいの地で、その慣わしの中で生きる両親の元に生まれ育ちました。その環境で私の価値観や生きる基準の根は深く張られて行き、家庭が子供にどれだけ大きな影響を与えるかを結婚してから体験することになりました。結婚で故郷を離れてニュータウンに住み始め、田舎に比べて格段に便利な街の生活になり、親から離れた開放感も感じてしばらく生活は順調に進んでいるように思い込んでいました。今その頃の私を客観的に眺めてみれば、「いつも不安が隣にあって、家族以外に心を開いて見せられない、行動するときは自分が他人の目にどのように映るかが基準」だったので、当然ですが立ち行かなくなる時がやってきました。夫婦関係の危機をきっかけに自分の指針になっていたものが総て崩れ、子育ても何を頼りにどこへ向かっていけばいいのか空っぽ状態で前に進めなくなりました。どうしようもなくこんがらがった糸に身動きできなくなっていた時、受け取ったのがクリスマス伝道礼拝のハガキでした。
初めて出席した礼拝で聞く言葉は、今までの自分の世界には無いものばかりでした。「神様はあなたを愛しています」の言葉は、当時自分を価値なくボロ布だと思っていた私に、「こんな自分が愛されている?それってどういうことなのか教えて欲しい」という思いが起こり、毎週礼拝に通うようになりました。神様は何の条件も付けずに愛してくださると言われ、イエス様が私を友と呼んでくださることを聴き、自分がイエス様を十字架につけたどうしようもない罪人の一人だと知り、パウロの目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになった追体験が私にも起こって行きました。自分の弱さが目の前に露わになり、自分には解決できない罪をイエス様によって赦されて生き直せる道を知りました。また、それまで見ようとしなかった自分の欠けも受け入れることができるようになって行きました。そして初めて教会に導かれてから2年後に、洗礼を授けていただきました。これが私の洗礼への道のりです。
神様が土台となってくださる人生には深い安心があります。神様のなさることは不思議ですぐにはわからないことも多くありますが、これからも神様に伴走してもらいながら人生を味わって行きたいです。