説教要約
上田真由美 牧師
「私の魂は主を崇めます」(46節)。「崇める」とは、“大きくする”という意味です。身ごもったことを天使から聞いて、マリアは恥じと不安に駆られました。最も卑しい者として見放し軽蔑する世間の目が、巨大な壁のように立ちはだかり、心は八方塞がりであったでしょう。
その中にあって与えられた主のみ告げは、唯一の心の支え、説明できない事実、信じる他ないことでした。マリアはそれを信じました。それが一番正しい、と。すると、世間の巨大な壁は小さくなり、主のみ告げが、主なる神だけが、大きくなったのです。その根本理由を「この卑しい仕え女に目を留めてくださったから」(48節)、「力ある方が私に大いなることをしてくださったから」(49節)と歌います。
主なる神が大きくなるとは、その権力を発揮され威張って人や物を壊されることではありませんでした。人は抑えつけられることによっては崇めるようにはならない。反発します。主なる神は、人と同じ最も貧しく卑しい姿をおとりになることによって人を救われる、という仕方でその力を発揮されました。
主なる神がわざわざマリアを御子キリストの母としてお選びになったのは、神が神として本当に尊敬され崇められるようになるため。一人も滅びないようにと、神は最も卑しい者をお選びになって、まるで無きに等しい者になられるのだということを、マリアは自分の立場から感じ取ったのでしょう。自分は名もない田舎娘で貧しく地位もない。しかも身ごもった。そういう者を救うために、神がなさったことはご自分を小さくすること。これは、世間ではあり得ないことです。その驚き、その救いを歌います。神は、卑しい姿をとって、この世にお生まれになるんだわ。こんなにも自分に目を留めて下さった!と。
ただ、マリアの言葉はまだ美しいなと思います。美しいだけじゃないことがあったはず。私たちは、この歌に共鳴したいと思いながらも、世の中全体から言えば自分はマリアのような卑しい立場ではないと思うでしょうか。そうならば、マリアの言いたいことを思い違いしています。この歌が聖書によって私たちの歌にもなっているということは、私たちも卑しい者だということ。それじゃ、地位や尊敬を得ていても誰にもある卑しさとは何でしょうか?……罪です。歪んでいて惨めで悲しむべき罪があります。人の卑しさは、そこまで行かなければ分かりません。
マリアはここで、御子の母に選ばれ御前に引き出されて神との関係において罪に汚れた自分を感じざるを得なかったのでしょう。自分はこの役にふさわしくない。神からこんなに恵まれる資格はない、と。マリアも、償おうとしても償えない罪があるのです。その点から見ると、人の心の底までも知られそれを引き出して人の卑しさというものを知らせるのがクリスマス。そういう卑しさが分からなければ、なぜ、神の御子が人の姿をとってこの世に来て下さったかが分かりません。分からないと、クリスマスを本当に喜ぶことはできないでしょう。私たちも、主なる神はこんな卑しい私にも目を留めて下さりご自身を与えて「憐れみ」(50節)を示して下さった。これ以外に「大いなること」(49節)、つまり《救い》はあろうか!と、主を崇めて生きる者でありたいと願います。
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